手話ゴリラ・ココは本当に会話ができる - その7 で、結局どうなの?

というわけで、ココちゃんのファンとしてはこれで終わりにして、ゴリラのココは本当に話せるんだよという結論にしておきたいのですが…!やっぱり反論への反論もご紹介しないとフェアじゃないですよね…とは言うものの!

実は直接の反論への反論は知らなかったりします。チェバリエル=スコルニコフの論文のあと、テラスが同じ雑誌に「なぜココは話せないのか: その類人猿はいまだに多くの人を多くの間だましつづけている」という、そのものずばりのようなタイトルの論文を出しています。多分なんですけど、これに何か書いてあるんじゃないかとは思うものの、高いので買ってません…!

なので、私が思うなんとなくこんな感じじゃなかろうかというお話でお茶をにごそうと思いますごめんなさい。

まずは、パターソンの反論は基本的に反論になっていない…というか、問題点を把握していないようなところがあります。たとえば、「非言語的な合図は人間のコミュニケーションにも偏在している」との反論。

これはそもそも、言語学者たちも言っている基本的な話だったりします。

たとえば、日本語の音韻論の研究で博士号を取得し、北海道にも訪れたことのある言語学者ビル・ポーザー (Bill Poser) 。類人猿にかかわりはないんですが、チンパンジーに言葉を教えるプロジェクトのニュースの「人は単語を伝えるけど感情は伝えない」という一節へのコメントです。

この分野については私はほとんど何も知らないが、しかし本当にそんな証拠があるのだろうか。身ぶり、表情、そしてその他の非言語的な伝達の手段と一緒に行う人間の言葉は、チンパンジーのよりも感情を伝える能力で劣っているという証拠が。

そして言語学者ではありませんが、このブログで何度もお世話になっているサポルスキーも脳の観点から非言語的な合図が行われる理由を説明しています。

なぜなら電話で話しながら手でジェスチャーをしないのは不可能なことなのだ。感情を活性化させたり発生させる、いかなる話でもしているときには、手は狂ったように動いて意味をなさない。大脳基底核がこのことすべての、実に中枢なのだ。

言葉は口だけでなく、表情や手など体でも伝えようとするものなので、相手が見えない電話中などのジェスチャーが意味をなさない状況でも、手を動かさずにはいられないんだそうです。

上記2人の発言は最近のことではありますが、昔からよく知られていた事実なのです。言語学者のシービオクも論争の中で、パターソンの上記反論は「それは俺が本に書いてることと同じやで」というようなことを言っています。

なので、人は「クレバー・ハンス的な認識にも大きく依存」していて、批判者は「この身ぶりのもつ基本的な側面を見逃している」というパターソンが自著で主張することは、誰もが知っていることで、誰もがそんなことは問題にしていないことだったりするのです。基本的にすべてこんな感じです。

みんな「ちゃんとテストをしろよ」と言っているのですが、パターソンはそこの争点には行き着かないところがあります。子供の言葉の研究もきちんとテストされていない側面があるにしろ、だからってゴリラの言葉の研究もテストしなくていい理由になるのかは微妙です。

なので、テラス、シービオクだけでなく、ニム・チンプスキーに手話を教えたローラ・ペティット (Laura A. Petitto) にまで言われてしまっています。

私たちは、パターソンの報告は適切なデータや分析をふくんでおらず、彼女の結論には根拠がない、と結論づけた。

ちなみにこの論文も面白そうなのですが、やはり高いです。500円くらいで読めたりその10倍の値段がしたり、どういう基準なんでしょうか。ご存知の方いらっしゃったら教えてください。あと安く読める方法とか。できればただで。

はては同じ類人猿は話せる派であり、カンジの育ての親であるサベージ=ランボーまで、パターソンは「彼女の軽々しい信じ込みやすさを一生懸命働かせのだ」と言い、自著でこのように批判しています。

前後関係の情報 (context-information) の強い影響を除外するためのテストデータに欠けている

というわけで、チェバリエル=スコルニコフの論文は認知、つまり心の働きからクレバー・ハンス現象を分析し、ココのやっていることとは別ものだと結論づけましたが、結局はあてにならないパターソンのデータがもとになっているので、どこまで正しいのか分からないということになってしまうのです。

そんならなんで長々とあてにならない反論を紹介したんだよ!という話なんですが、パターソンがチェバリエル=スコルニコフを自著で取り上げていたという理由の他に、実は彼女の人間の赤ちゃんの心の働きと比較した分析、これを別の人が別のルートで発展させたことで、類人猿は言葉を話せないのだとはっきり、論争にとどめをさすことになってしまったからなのです。長くなっちゃったので続きますね!
参照:
Why Koko Can't Talk: The Ape's Still Fooling Most of the People, Most of the Time - The Sciences, Dec82, Vol. 22 Issue 9
On the evidence for linguistic abilities in signing apes - Brain and Language Volume 8, Issue 2, September 1979
23. Language - YouTube
Talking Chimp - Language Log


手話ゴリラ・ココは本当に会話ができる - その6 問題はダブル・スタンダード

というわけで最後の4番、話す類人猿の言うことに文法がないという批判への反論です。今までずっと人間の赤ちゃんと比較してきたので、また子供の話かと思った方は当たりです!

チェバリエル=スコルニコフは、ゴリラのココやチンパンジーのワショーとニム・チンプスキーのさまざまな発言を分析し、文法のようなものがあると考えました。たとえば、ワショーちゃんが白鳥を見て言った「水鳥 (water bird)」です。

「水」は厳密には形容詞ではありませんが、ものごとの性質や状態を表し、「鳥」という名詞をつなげて新しい言葉を作っています。このようなルールにのっとって新しい言葉を作る行動は、多くの話す類人猿たちが行うことです。たとえば…
  • 白い トラ (white tiger) → シマウマ (ココ作)
  • 象の 赤ちゃん (elephant baby) → ピノキオ (ココ作)
  • 目の 帽子 (eye hat) → 眼帯 (ココ作)
  • 汚い オレンジ (dirty orange) → レモン (ココ作 嫌いな果物だそうです)
  • 煙の 糸の 食べ物 (smoke string food) → たばこ (ワショー作)
  • 汚くて いい (dirty good) → トイレ (ワショー作)
  • 服 ごはん 食べる (clothes food eat) → よだれかけ (ワショー作)
  • 金属の カップ 飲み物 (metal cup drink) → 魔法瓶 (モジャ作)

これらの文法らしきものはいたるところに存在し、たとえば1語ずつの対話にしても「垂直の文法 (vertical grammer)」と呼べるものがあると考えました。そして、これらは人間の子供の発話と比較すると、よく似た初期の文法であると結論づけました。

厳密に言えば、これらは統語論的文法の構成にはほど遠いのかもしれません。しかし、これを人間がやると初期の言葉で、類人猿がやると言葉を覚えない理由になるのはなぜなのか。

時代はちょっと下りますが、子供の言葉を研究した心理学者パトリシア・グリーンフィールド (Patricia Greenfield) も、子供たちの初期の言葉は、必ずしも言語学者たちの主張するとおり文法が中心的ではないと考えました。そして言います。

子供が何かできると、それは言葉と呼ばれる。たとえば2歳の子供が何かやる、研究者たちはそれを子供の言葉だと呼ぶ。チンパンジーが同じことをする、するとそれは言葉ではない。その理由はダブル・スタンダード (二重基準) があるからだと思う。

そして、そのダブル・スタンダードがどこからくるのかと言えば、みんな子供は最終的に育って完璧な人間の言葉を話すのを知っているということからだ。私たちは、チンパンジーが育っても最終的に話したり完璧な人間の言葉を生成しないということも知っている。だから、データの解釈に偏見があるのだ。

スー・サベージ=ランボーとともに、話すチンパンジーのカンジの研究にもかかわった、哲学者のスチュアート・シャンカー (Stuart Shanker) も同じことを主張します。

…シャンカー博士のような何人かの哲学者たちは、言語学者たちはダブル・スタンダードを適用していると苦情を言っている: 言語学者たちは (類人猿たちの) 技能 ── 名詞と動詞をつなげて2語の文を形作るような ── をしりぞけている。言語学者たちが、とても小さな子供の初期の言葉の能力だと考えていることを。

「言語学者たちは要求を上げつづけ、スーは要求に答えてきた」とシャンカー博士は言った。「しかし、言語学者たちはゴールポストを動かし続けているのだ」

パターソンは、言語学者のトーマス・シービオクにダブル・ブラインド テスト (二重盲検法) が不適切だと批判されましたが、逆に言語学者たちはダブル・スタンダードを適用しているというわけです。実際、パターソンによれば、子供の言葉の研究だって全然テストはされていないと自著で述べています。

私たちは、ココの身ぶりがことばであるかないかを、このような厳密な方法で確認してきた。しかし、人間の幼児のことばの習得について比較飼料を求めようとすると、この厳密さはなくなってしまう。

もし、厳密なテスト法を使って幼児のことばの習得を確認するとすれば、ことばは、チンパンジーやゴリラにはあるが、人間の幼児にはない、という皮肉な結果もおこりうると、ガードナー夫妻が述べたことがある。

幼児の言語習得の研究を調べてみると、その資料収集の手法は、きわめてあやふやなものであることがわかる。かりに、それと同じ手法で類人猿についての資料を提出したとすれば、不明確だとか、教師や助手に促されたものだとかの反論を受けるだろう。

幼児のことばの研究は、このニ〇年のあいだ、クレバー・ハンスの教訓からは何も学ぶことなく、幼児に発話の手がかりを与えつづけてきたのである。

シービオクのクレバー・ハンスの教訓から学んでいないという批判を、そのまま返しています。ダブル・スタンダードという言葉こそ使っていませんが、前述のふたりと同じようなことを主張しています。

動物と人間の伝達の研究は、方法論からみて、相対立する観点から出発しているところに問題がある。人間の伝達行動の研究では、健常な人であれば、つまるところすべて話しことばを身につける、という予見を大前提としていた

というわけで、類人猿の話していることは、小さな子供たちと基本的に同じであり、批判している人たちは人間か類人猿かで基準を変えているのだとの反論でした。

ちなみになんですが、このダブル・スタンダードの原因は、人間は言葉を話すからという理由のほかに、一部の人々は人間と動物の境界を作っておきたいからだとする主張もあるようです。たとえば、ワショーの育ての親のガードナー氏です。

ほとんどの現代科学の歴史は、人間が特別だとの概念からの撤退であった。そして、今や血は骨に関しては、人々はおおむね受け入れている。しかし、行動 (behavior)、感情、認知、これはとても難しい。

行動科学の歴史は、円陣で固めた荷車の中の分離主義者 (separatists) たちの、ゆっくりとした撤退の戦いであると見ることができる。そしてたった今、最後の壮大な抵抗が言語の上で行われているようだ。

円陣に固めた荷車云々は、西部劇などで見かける、馬車の荷車を円状に配置して中に立てこもるように戦う様子でたとえたんだと思います。公平な議論なのかどうか気になったのですが、ときどき争点のひとつとして、「Chauvinism (優越主義)」と並んで見かけるので一応挙げておきました。

私にはいまいちぴんときませんが、キリスト教的だったりデカルト的だったりな観念が浸透した西洋的文化の社会では、こういう信念をもとに否定しようとする人たちもいるのでしょうね。

手話ゴリラ・ココは本当に会話ができる - その5 学ぶは真似ぶ

1番のクレバー・ハンス現象でもない、2番のでたらめを嘘やジョークにしているわけではない、という反論に続いて、3番の話し相手の真似をしているわけではないという反論です。

前々回の、ゴリラのココを始めとする話す類人猿たちはひとりごとを言うので、それが真似をしているだけではないという証拠になります。話は終わりになってしまうのですが…それだけではなんなので、ふたたびチェバリエル=スコルニコフさんの見解から。

そもそも話す類人猿たちは話し相手の真似をしていると結論づけたのはハーバート・テラスですが、彼の結論を引き合いに出して反論します。

この (テラスの) 議論は、類人猿たちが言葉を話すかどうかの疑問にはあたらない。むしろその代わりに、ピアジェの考え方からすると、以下のふたつの疑問を吟味することになる。

どのレベルの複雑さで類人猿の手話行動は機能しているのか?
そして、どの範囲まで類人猿の手話行動はクレバー・ハンス現象、模倣、一般的な合図に帰するのか?

真似をしているだけのように見えても、心の内面、認知 (cognition) の面から見たらすべてただの真似とは言えないのです。

そして、以前もご紹介したチンパンジーのワショーの例を挙げています。人が笑いながら「おかしい (funny)」と手話しているのを真似し、だんだんと正しい状況で「おかしい」という手話が使えるようになったというお話です。

心の内面の働きは人間の2歳児相当にある彼らは、「目的指向 (goal-oriented)」で手話を使うことができると言います。最初は真似している手話の意味が正しく理解できていなくても、そのうちその手話が何を意味しているか分かってくるのです。

その理由として、「一般化 (generalization)」を挙げています。なんだかよく分かりませんが、言葉の概念を抽象化できるということです。もっと分かんなりましたけど!

たとえば、ココは子供の頃は飲み物として乳児用ミルクを与えられていました。それを「飲み物 (drink)」として教えられて手話をしていました。これをだんだんと他の飲み物、果実ジュースのようなものに対しても「飲み物」と呼ぶようになりました。

ミルクを見せられて飲み物と呼ぶだけなら条件反射でもできます。「飲めるもの」は「飲み物」であると考えることが、言葉の概念を抽象化し、あてはめる「一般化」です。言葉の意味が分かってきているのです。

とは言うものの、ときには間違っていることもあります。スープや味噌汁は飲めますけど、「飲み物」じゃないですよね。こういう過剰に一般化してしまうことを、そのまんま過剰一般化とか超一般化と呼び、言葉を覚えたての子供がよくやります。

ココも同じように言葉を覚える過程で、果実の切れ端も「飲み物」と呼ぶようになったことがありました。丸呑みしていたからなのか、果実ジュースの元になるものだからかは分かりませんが、言葉を覚えたての子供と同じく、過剰な一般化も見せているのです。

というわけで、一概に真似してると切り捨てられる話ではなく、認知の面から見れば、これは言葉を理解し始めている証拠ともなります。真似しているからといって、言葉を理解していないとは言えないのです。
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