ハーバート・テラスという人 (2/5) - ガントレットを投げた男

あまりうまくあらすじをご紹介できなかったので、映画が描くこの実験の悲惨さを伝えられませんでしたが、「プロジェクト・ニム」が描くハーバート・テラスは、さながらマッド・サイエンティストのようでした。多くの映画レビューは彼を身の毛のよだつ実験を行った血も涙もない人間として糾弾しています。みなさんも、ぜひ他のサイトのレビューを読んでみてください!

そして、デイリー・メール紙が「小さなひげと大きなエゴの男」「冷酷なドリトル先生(※1)と呼ぶこの男。なぜそんな実験をしてどんな男だったのか、類人猿の言語教育の歴史からひもといてみましょう!

「神話の終焉」シリーズの初回でもお話しましたが、この時代、人間はどうやって言葉を覚えるのかについて学界を二分する大論争がありました。

一方の大将は、行動心理学者のバラス・スキナー (B.F. Skinner)。当時のアメリカの心理学界では非常に影響力があり、現在でも人や動物の育成にその理論が使われているくらい偉大な人です。この人は、人間はご褒美で学習して言葉を覚える(※2)のだと考えました。

それに噛みついたもう一方の大将が、言語学者のノーム・チョムスキー (Noam Chomsky) です。子供を観察していると、学習だけでは説明のできない速さで覚え、学習したことのない文を話すので、これは脳に言葉を話すための仕組みがあるのだと反論しました。

心理学者のテラスは、前者のスキナーの教え子で生粋のスキナー派 (Skinnerian) でした。スキナーは、ニューヨーク・マガジン誌の取材に答えてテラスをこう評してます。

『テラスは、これまで私の持った生徒のなかで、おそらく最も優秀だった。』

スキナーの学術論文を「信仰」し、「ハトに赤と緑、そして縦と横の線の区別を教えるのに一時間もかからない」とまで言われた男でした。

ところで、この当時すでに手話で話すとされたゴリラのココやチンパンジーのワショーがいました。人間以外に話す動物がいるとすれば、人間の脳に話す仕組みがあるというチョムスキーの主張は間違っていることになります。

テラスはスキナー派としての自らの信念のために、チンパンジーに言葉を学習させる実験から厳密なデータを集め、チョムスキーの間違いを証明しようとしました。実験対象のチンパンジーを「ニーム・チンプスキー(※3)と論敵ノーム・チョムスキーの名前をもじって名づけたのには、この挑戦の意味合いとテラスの自信のほどがあったのです。うまく行ったら痛快ですものね!

しかしその結果は、みなさんご存知のとおりです。詳しい経緯は「神話の終焉」の前半にまとまっています。

ただし、これはニムを霊長類研究所に送り返してからのことなのです。実験中は、テラスも助手もニムは話していると考えていました。そして、テレビや雑誌にも取り上げられていたように、世間の人々もそうだと考えていました。当然、プロジェクト・ニムの暗部も知られてはいませんでした。この時点では、ココやワショーと一緒に話すチンパンジーの仲間入りをさせて、スキナーは正しかったと結論づけることもできたのです。しかし、テラスは言います。

『それは常にそこにあった。しかし、私には見えていなかった。私たちはあまりにチンパンジーに注目することに忙殺されたあまりに、教師への注意を払っていなかった。

ひとたびそれが明らかになると、それは明らかだった。私は、世界に知らせなければならないと分かっていた。』

テラスは、自分が得た結論から目をそらすことはしませんでした。自らの信念であり恩師であるスキナーの説を否定し、論敵チョムスキーを揶揄する名前をつけたことを逆に笑われ、これまでのスキナー派としてのキャリアを投げ捨てることになろうとも、科学者としての真実をサイエンス誌に投稿しました。

案の定、これがスキナー派の「ワーテルロー」となりました。争いの歴史に決着をつけたナポレオン最後の戦いになぞらえた「大敗」を意味する英語の言い回しだそうです。

30年後、72歳となったテラスは、こう述懐しています。

『私はドリトル先生になるのだという空想をしていた。みんなチンパンジーに言葉を持って欲しかった。私がもともとそうであったように。

これ以上すばらしいことがあるだろうか?われわれが他の種族とコミュニケーションをとる、初の瞬間となるはずだったのだ。』

んー…こうしてみると、少なくとも「小さなひげ」の男ではありますが、「大きなエゴ」の男ではありませんね!冷酷かどうかは…まだ分かりませんけど。

※ 「ガントレットを投げる」というのは騎士が決闘を挑むときの宣言で、後の手袋を投げる行為の起源となったそうです。
※1 ドリトル先生は、動物たちと会話のできるお医者さんの心温まる交流の物語に出てくる主人公の名前です。
※2 お腹の空いた幼児が「まんま」と言えたらご飯がもらえるけど、「ばーぶー」としか言えなかったらもらえない。犬を見て「わんわん」と言えば「そうだね」と肯定してもらえるけど、「ばーぶー」としか言えなければ放置される…みたいな話です。
※3 Neam Chimpsky。ニム (Nim) は短縮形だそうです。



ハーバート・テラスという人 (1/5) - プロジェクト・ニム

今さらですが、だいぶ前にコメントいただいて、テラスの研究について書くとお返事しておきながら放置状態なのを思い出しました。大慌てで書きたいと思います!

コロンビア大学の心理学教授ハーバート・テラス (Herbert S. Terrace) と言えば、大きな物議をかもした実験で有名な方です。映画やテレビ番組にもなったので、「映画 プロジェクト ニム」「奇跡体験アンビリバボー ニム チンパンジー」で検索してみてください。多くの方のレビューで、あらすじが紹介されています。

簡単にご紹介すると、このような経過をたどりました。

1973年11月19日生まれのチンパンジー、ニム・チンプスキーは人として育てられ、手話を学んで言葉を覚えるべく、生後2週間で麻酔銃で撃たれた母親から引き離され、テラス教授の元生徒で元恋人のステファニー・ラファージ (Stephanie LaFarge) に預けられました。

この最初の養母となったステファニーには7人の子供がいて、ヒッピーで金持ちの旦那と暮らしており、ニムはそこで人間の赤ちゃんとして育てられ、手話を学ぶはずでした…が、実際にはステファニーはニムにまったくしつけをせず、お酒を飲ませてマリファナを吸わせ、ニムが年頃になると裸体を見せて触らせ、ニムは旦那に嫉妬して大暴れするまでになりました。

ステファニーは1年半にわたって手話を教えるどころか記録さえつけておらず、テラスに呼ばれたコロンビア大学の研究生ローラ・アン・ペティット (Laura Ann Petitto) はそれを見ていわく、その家は「大混乱」で、

『ステファニーがニムのリビドーを固着させていることにぞっとした。』

そしてローラが2番目の養母となり、新しい家で新しい助手たちとともにニムを育て、手話を教えました。ニムは賢くすくすくと学び、一躍有名となり1975年のニューヨーク・マガジンの表紙を飾ったり、子供番組セサミ・ストリートに出演するまでになりました。テラスは大得意です。

『私は歴史を作るチンパンジーを手に入れた。』

しかし、ニムは大きくなるにつれ攻撃的になりました。人がニムに対して背中を見せるなど、少しでも弱みを見せるといきなり噛みつくようになりました。今も腕に傷の残るローラいわく、

『彼 (ニム) は血を流さずにはいられなかった。』

非常に嫉妬深かったニムは、テラスと恋仲になったローラを見て、不実をなじるべく2階の8メートルの高さの窓から飛び降りてつかみかかり、ローラの頭を道路に何度も叩きつけました。男性4人がかりで引き離したそうです。

『人を殺すかもしれない動物に人と同じような養育はできない。』

と、その役目を降りたローラの代わりにレニー・ファリッツ (Renee Falitz) が次の養母となったものの、ニムはレニーにも飛びかかり頬を噛みちぎりました。手術の後に再開したところ、ニムはまたもやレニーの頬めがけて飛びかかり、逃げ出したレニーいわく、

『悪いボーイフレンドとの別れのようだった。』

1978年、これ以上人を傷つける前にと、ニムは生まれたオクラホマの霊長類研究所に送り返されました。他のチンパンジーを見たことのないニムはおびえ、連れてきた女性にしがみつき、檻に入れられた後は必死で外の人たちに向かって「だっこして (Hug me)」と手話をしていたそうです。

ここで後にニムを救うことになるヒッピー、ボブ・インガーソル (Bob Ingersoll) と出会い、同情した彼と手話で話し、散歩に連れて行ってもらったり、大麻を吸わせてもらったり…しました。

『彼 (ニム) は楽しいことが好きだったよ ── 好きじゃないやつなんている?』

1979年には、テラスは例の論文を書き上げてサイエンス誌に投稿し、ご存知のとおり、この研究分野を壊滅させました。

その影響もあってか資金難となった霊長類研究所は、1982年にニムをエイズと肝炎のワクチンの薬剤研究所に売り飛ばしました。悲痛なことに、そこでニムを始めとするチンパンジーたちは小さな檻に入れられ、半狂乱になってニムから学んだ手話で研究員たちに話しかけていたそうです。

ボブがさまざまな方面に働きかけ、ある弁護士が人として育てられたからには人として弁護を受ける権利があると主張してニムを裁判所に連れ出し、判事はなぜかそれを認め、ニムは自由の身となりテキサスの動物保護区に送られました。

ニムはしばらくここで一人さびしく暮らし、吠えかかったプードルを床に何度も叩きつけて殺したり、会いに来た最初の養母ステファニーの足首をつかんで地面を引きずり回して射殺されそうになったりしたものの、後にお嫁さんを貰って子供をもうけ、いつも会いに来るボブと手話で「遊ぼう (Play)」と誘い合いながら、以前よりは幸せに暮らしました。

そして2000年3月10日、朝ごはんの準備をしているボランティアに「急いで (Hurry)」と手話した直後、心臓病で26歳という短い人生を終えました。

…こんな…こんなくされた実験がココちゃんの会話能力を否定してしまったのですよ…!一体どういうわけなんだ!…というお話が続きます!

世界初の手話で会話するチンパンジー、ワショー - その3

ワショーは1970年10月、育ての親ガードナー夫妻の元を離れ、ガードナーの教え子ロジャー・ファウツ (Roger Fouts) に連れられてオクラホマ大学の霊長類研究所 (Institute for Primate Studies, IPS) で暮らすことになりました。

そこには18匹の手話を知らないチンパンジーたちが暮らしていました。以前にもお話したとおり、ワショーは初めて他のチンパンジーを見たときには自分が人間の子供じゃなかったことにショックを受け、アイデンティティーの危機を経験したそうですが、この頃には他のチンパンジーとも仲良くできたようです。そして、ワショーは彼らに手話で話しかけていたそうです。

例えば、落ち込んでいる若いチンパンジーには、「おいで 抱きしめるよ (COME HUG)」と手話して慰めていました。また、みんなに果物が与えられるときには、他の競争相手のチンパンジーたちに向かって、遠くの水道の蛇口を指差し「飲みに行け (GO DRINK)」と手話していたそうです。いい子なんだか悪い子なんだか分かりません。

そうこうするうちに、彼らの中からワショーの手話を覚えて使うものも現れました。マニー (Manny) というチンパンジーは、ワショーから「おいで 抱きしめるよ」を覚え、あいさつのときや他のチンパンジーを慰めるときに使うようになったそうです。

そして、他のチンパンジーたちも研究員たちから手話を習うようになり、ワショーも彼らと手話で会話するようになりました。サポルスキーの揶揄したブーイー (Booee)や、ニムの兄弟でテラスに批判されたアリー (Ally) もこのときに手話を覚えたチンパンジーです。

ワショーはここで、他のチンパンジーたちに手話を教えるだけでなく、彼らから学んだり新しい手話を作り出したりもしました。

例えばワショーに手話を教えたガードナー夫妻は「毛布 (BLANKET)」という手話を知らなかったので、代わりに「覆う (COVER)」を使っていましたが、他のチンパンジーが使う手話を見て「毛布」の手話を使うようになりました。

同様に、「リンゴ (APPLE)」はワショーにとって果物全般を指す言葉でしたが、他のチンパンジーが使うのを見てリンゴだけを指すようになりました。

また、前回にも出てきた「人 (PERSON)」という手話。給仕係にエサをもらう際、自分に気づいてもらうために彼の名前を手話しても、見ていないと気づかれないので、手を叩いて音で注意を引くようになりました。しばらくはこの給仕係を指す手話になりましたが、のちに人全般を指す手話になったそうです。

ワショーはここで、ルーリス (Loulis) という幼いチンパンジーも養子にしましたが、研究は例の一連の騒動の余波で資金難となり、1980年、またまたセントラル・ワシントン大学 (Central Washington University) の Chimpanzee and Human Communication Institute (CHCI) に移動することとなりました。一緒についてこれたのはわずかにルーリスとモジャ (Moja)、タトゥ (Tatu)、ダル (Dar) の4匹。残りは散りぢりとなりました。

しかし結局、ワショーとモジャ、ダルは、かろうじて CHCI で息を引き取ったものの、昨年8月にルーリスとタトゥも保護区送りとなってしまいました。ワショーを祖とする手話チンパンジーの系統は、ここに断絶となりました。

ワショーは2007年10月30日に、42歳で病気のあとに死亡しました。死の間際は、家族同然の仲間と人間の友達に囲まれていたそうです。

「彼女は具合が悪かった。私は飲み物をあげに彼女に近づいた」とファウツは言った。「彼女は頭を持ち上げ、ホーホーという鳴き声 (チンパンジーが出すおだやかな声) で私にあいさつをした。彼女はいつも礼儀正しく、ほがらかな人だった
The Seattle Times より

ワショーに先立つ1995年、育ての親ベアトリクス・ガードナーが亡くなっていました。ワショーが知っていたかは不明ですが、あの世での再会の喜びを手話で語ったことでしょう。

ワショーの住んでいたワシントン州エレンズバーグ市は、ワショーの死後に「共同体の娘」の称号を授けました。
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