手話ゴリラ・ココは本当に会話ができる - その8 やっぱり本当は話せないらしいですよ

前回からの続きで、ゴリラのココは話せないという批判に対する反論への反論です。ややこしいですね!あと、前回もご説明したとおり誰かの直接の反論の反論ではなくて、なんとなくいろんな話を読んでるとこういうことじゃないかという私のうわごとです。ちゃんとしたお話は京都大学の先生とかに聞いてみてくださいね!

ちょっとおさらいすると、ずっと人間の赤ちゃんとゴリラやチンパンジーなどの類人猿の認知 (cognition)、つまり心の働きを比較して、少なくとも2歳児前後の心の働きに近いものはあるので、話せるのだというような論旨を展開してきました。あとは、人間の子供の初期の言葉に似ている、という主張もありました。

とは言うものの、ハーバート・テラスが言うように、

もし子供が、一番優秀なチンパンジーがやっていることをそのままやっていたら、その子供は発達障害だと考えられるだろう。

たくさんの似ている点があっても、たくさんの決定的な違いもあるです。

たとえば、まだ言葉を話せない人間の赤ちゃんにバイバイと手をふると、赤ちゃんも真似をしてバイバイと手をふり返します。赤ちゃんに向かってボールを転がすと、真似をしてこちらにボールを転がします。これらは類人猿も真似ができるとはいえ、教えられない限りやらないのだそうです。同じように見える模倣行動ですが、決定的な違いがあるのです。どういう意味があるのか、はっきりはしませんが、お互いに言葉を伝えるという会話と何か関係があるのかもしれません。

また、言葉を話せない人間の赤ちゃんも類人猿も、何か興味のある物に指をさします。しかし決定的な違いは、赤ちゃんは存在しない物、たとえば以前はそこにあったけど今はもうない物に対しても指をさすのです。これもどういう意味があるのかはっきりはしませんが、言葉の主要な特徴のひとつ、時間と空間を超越できることに関係があるのかもしれません。

そして、言葉を話すとされた類人猿には言えないこともあります。たとえば再帰です。「こんにちはと私が言ったと彼が言ったと私が言ったと彼が…」のように入れ子になった文です。「世界で一番長い文の作り方を教えてやろうか?」と子供に教えると「ずーるーいー!」と言われそうですが、子供でも分かるこの仕組みは類人猿にどんなに教え込んでも理解できないことなのです。

そして、子供は言葉を覚えると「どちて坊や」になります。あれなに?あれなんの音?パパはいつ帰るの?犬はどこ?などなど、大人からすればどうでもいいことを質問しまくるようになります。が、類人猿はこういう質問をしません。いつもあげているご飯がもらえないときに、「ご飯は?」と聞くくらいしかしません。これも人間の子供と類人猿の決定的な違いのひとつです。

そこで、類人猿と人間の子供の心の働きは似ているところもあるけど、決定的な違いもあるよね。ひょっとして、これが類人猿が言葉を話せない理由なんじゃないの?と考えたのが、以前ちょこっとだけ名前の出た話すチンパンジー、ラナちゃんの育ての親デビッド・プレマック (David Premack) です。

なぜそんな大事な発見をしたチンパンジーを取り上げないんだ!とお思いかもしれませんが、ぶっちゃけあんまり面白いこと言っていないんです!「バナナはバナナである」「リンゴはバナナではない」みたいなことしか言ってなくて、ココの「苦労のない穴にさようなら」とか「人は礼儀正しくあれ、人は徳を持て」のインパクトの前ではかすんでしまうのですよ!

というわけで、プレマックさんが提唱したのが「心の理論」です。人間の自閉症とか発達障害の解説などにも使われるので、聞いたことのある方もいらっしゃると思います。サリーが隠した人形をアンが…みたいな話です。というか、チンパンジーに言葉を教える研究の成果が人間の自閉症や発達障害の研究に役立っていたのがびっくりですよ!

これはサポルスキーも言ってるとおり、言葉というのはただの音や単語の組み合わせではなく、認知、つまり心の働きそのものだということと関係があります。テラスが指摘した文法の欠如も、つまるところそういう心の働きの欠如だったのです。再帰ができないのも、そういう心の働きがないからです。

で、類人猿にはどんな心の働きが欠けていて、それが欠けているとなぜ話せないのか…はとても長い話になるのですが、言語学者のジェフリー・プラム (Geoffrey K. Pullum) が身も蓋もないけど分かりやすい説明をしていました。

テラスが記すように、問題は心の理論の欠如だ: チンパンジーたちがわれわれに何も言わない理由は、ただ彼らが特に言いたいことがないからではない。彼らはわれわれに脳みそがあって、彼らのことを理解するかもしれないという発想がまったくないからだ。

そんなわけで、これがテラスの発見とともに類人猿に言葉を教えようとするあらゆるプロジェクトを葬り去りました。というか、類人猿に限らずオウムやイルカ、その他話すとされた全ての動物は本当は話せないという理由にもなりました。以前の結論どおり、言葉は教えてどうにかなる問題ではなくて、たとえドラえもんの「ほんやくコンニャク」を食べさせたとしても、彼らは話せないということが分かったのです。

つまるところ、類人猿たちは高い知能で覚えた手話で自分の考えを伝えていたのではなく、ご褒美をもらおうとしていただけとなります。前述のプラムさんは、それを身も蓋もなく「ただの物乞いの達人」だと評しています。

というわけで、類人猿に言葉を教える研究は、次のステージに移りました。テラスも今はこちらに移りました。類人猿の心の働きを知ろうとする研究です。そして、類人猿に手話を教える代わりに、わけのわからない実験が始まりました。

たとえば、天井にバナナをつるして、チンパンジーが箱と棒でそのバナナが取れるかという実験は有名ですが、その棒を隠してしまってバナナが取れないとチンパンジーを悩ませる実験になりました。その棒を別のチンパンジーに見せたとき「おーい、ここに棒があるよ、これ使ったら?」と教えるかどうかを調べるのです。

あとは、鍵のついた箱の中に食べ物を入れ、その鍵をチンパンジーに見せつつ隠してしまい、あとで人間が箱を開けようと必死になっているのをチンパンジーが見たら、「あー、鍵ならそこにあるよ」と教えるかどうかを調べたりしています。もう実験なんだか遊んでるんだか分からないレベルです。

で、その過程でいろいろ分かってきました。チンパンジーにもわりと複雑な心の働きはあるけど、競争のために進化したと思われる心の働きで、逆に人間の心の働きは助け合うために進化したようだ。それが言葉を生み出すことにつながったのではないか、というような仮説も出てきました。ゴリラが話せなかったのは残念ですけど、ちょっといい話にもつながっていたのでよしとしましょう!

それに、類人猿たちは言葉は話さないとしても、子猫をかわいがるようなやさしい心を持つことには変わりはないのですよ!チンパンジーのニム・チンプスキーも猫が好きだったそうですし!でもニムはプードルを死ぬまで壁に叩きつけて殺してますけどね!過剰なシンパシーは彼らのことを見誤まるだけです!でも、ココがかわいいのも事実です!

そんなわけで、大変残念なことなのですが、就活の面接などで「きみ、あのゴリラは本当に話していると思うかね」と聞かれたら、「話しているように見えるのは錯覚 (実験者効果) で、そもそも心の働き (認知、心の理論) の違いで話すことはできないのです」と答えておくと無難かと思います。さらに、「話しているように思えるのは、それが話すわたしたち人間の心の働きだからです」と申し添えておくと好印象なのではないでしょうか。

手話ゴリラ・ココは本当に会話ができる - その7 で、結局どうなの?

というわけで、ココちゃんのファンとしてはこれで終わりにして、ゴリラのココは本当に話せるんだよという結論にしておきたいのですが…!やっぱり反論への反論もご紹介しないとフェアじゃないですよね…とは言うものの!

実は直接の反論への反論は知らなかったりします。チェバリエル=スコルニコフの論文のあと、テラスが同じ雑誌に「なぜココは話せないのか: その類人猿はいまだに多くの人を多くの間だましつづけている」という、そのものずばりのようなタイトルの論文を出しています。多分なんですけど、これに何か書いてあるんじゃないかとは思うものの、高いので買ってません…!

なので、私が思うなんとなくこんな感じじゃなかろうかというお話でお茶をにごそうと思いますごめんなさい。

まずは、パターソンの反論は基本的に反論になっていない…というか、問題点を把握していないようなところがあります。たとえば、「非言語的な合図は人間のコミュニケーションにも偏在している」との反論。

これはそもそも、言語学者たちも言っている基本的な話だったりします。

たとえば、日本語の音韻論の研究で博士号を取得し、北海道にも訪れたことのある言語学者ビル・ポーザー (Bill Poser) 。類人猿にかかわりはないんですが、チンパンジーに言葉を教えるプロジェクトのニュースの「人は単語を伝えるけど感情は伝えない」という一節へのコメントです。

この分野については私はほとんど何も知らないが、しかし本当にそんな証拠があるのだろうか。身ぶり、表情、そしてその他の非言語的な伝達の手段と一緒に行う人間の言葉は、チンパンジーのよりも感情を伝える能力で劣っているという証拠が。

そして言語学者ではありませんが、このブログで何度もお世話になっているサポルスキーも脳の観点から非言語的な合図が行われる理由を説明しています。

なぜなら電話で話しながら手でジェスチャーをしないのは不可能なことなのだ。感情を活性化させたり発生させる、いかなる話でもしているときには、手は狂ったように動いて意味をなさない。大脳基底核がこのことすべての、実に中枢なのだ。

言葉は口だけでなく、表情や手など体でも伝えようとするものなので、相手が見えない電話中などのジェスチャーが意味をなさない状況でも、手を動かさずにはいられないんだそうです。

上記2人の発言は最近のことではありますが、昔からよく知られていた事実なのです。言語学者のシービオクも論争の中で、パターソンの上記反論は「それは俺が本に書いてることと同じやで」というようなことを言っています。

なので、人は「クレバー・ハンス的な認識にも大きく依存」していて、批判者は「この身ぶりのもつ基本的な側面を見逃している」というパターソンが自著で主張することは、誰もが知っていることで、誰もがそんなことは問題にしていないことだったりするのです。基本的にすべてこんな感じです。

みんな「ちゃんとテストをしろよ」と言っているのですが、パターソンはそこの争点には行き着かないところがあります。子供の言葉の研究もきちんとテストされていない側面があるにしろ、だからってゴリラの言葉の研究もテストしなくていい理由になるのかは微妙です。

なので、テラス、シービオクだけでなく、ニム・チンプスキーに手話を教えたローラ・ペティット (Laura A. Petitto) にまで言われてしまっています。

私たちは、パターソンの報告は適切なデータや分析をふくんでおらず、彼女の結論には根拠がない、と結論づけた。

ちなみにこの論文も面白そうなのですが、やはり高いです。500円くらいで読めたりその10倍の値段がしたり、どういう基準なんでしょうか。ご存知の方いらっしゃったら教えてください。あと安く読める方法とか。できればただで。

はては同じ類人猿は話せる派であり、カンジの育ての親であるサベージ=ランボーまで、パターソンは「彼女の軽々しい信じ込みやすさを一生懸命働かせのだ」と言い、自著でこのように批判しています。

前後関係の情報 (context-information) の強い影響を除外するためのテストデータに欠けている

というわけで、チェバリエル=スコルニコフの論文は認知、つまり心の働きからクレバー・ハンス現象を分析し、ココのやっていることとは別ものだと結論づけましたが、結局はあてにならないパターソンのデータがもとになっているので、どこまで正しいのか分からないということになってしまうのです。

そんならなんで長々とあてにならない反論を紹介したんだよ!という話なんですが、パターソンがチェバリエル=スコルニコフを自著で取り上げていたという理由の他に、実は彼女の人間の赤ちゃんの心の働きと比較した分析、これを別の人が別のルートで発展させたことで、類人猿は言葉を話せないのだとはっきり、論争にとどめをさすことになってしまったからなのです。長くなっちゃったので続きますね!
参照:
Why Koko Can't Talk: The Ape's Still Fooling Most of the People, Most of the Time - The Sciences, Dec82, Vol. 22 Issue 9
On the evidence for linguistic abilities in signing apes - Brain and Language Volume 8, Issue 2, September 1979
23. Language - YouTube
Talking Chimp - Language Log

手話ゴリラ・ココは本当に会話ができる - その6 問題はダブル・スタンダード

というわけで最後の4番、話す類人猿の言うことに文法がないという批判への反論です。今までずっと人間の赤ちゃんと比較してきたので、また子供の話かと思った方は当たりです!

チェバリエル=スコルニコフは、ゴリラのココやチンパンジーのワショーとニム・チンプスキーのさまざまな発言を分析し、文法のようなものがあると考えました。たとえば、ワショーちゃんが白鳥を見て言った「水鳥 (water bird)」です。

「水」は厳密には形容詞ではありませんが、ものごとの性質や状態を表し、「鳥」という名詞をつなげて新しい言葉を作っています。このようなルールにのっとって新しい言葉を作る行動は、多くの話す類人猿たちが行うことです。たとえば…
  • 白い トラ (white tiger) → シマウマ (ココ作)
  • 象の 赤ちゃん (elephant baby) → ピノキオ (ココ作)
  • 目の 帽子 (eye hat) → 眼帯 (ココ作)
  • 汚い オレンジ (dirty orange) → レモン (ココ作 嫌いな果物だそうです)
  • 煙の 糸の 食べ物 (smoke string food) → たばこ (ワショー作)
  • 汚くて いい (dirty good) → トイレ (ワショー作)
  • 服 ごはん 食べる (clothes food eat) → よだれかけ (ワショー作)
  • 金属の カップ 飲み物 (metal cup drink) → 魔法瓶 (モジャ作)

これらの文法らしきものはいたるところに存在し、たとえば1語ずつの対話にしても「垂直の文法 (vertical grammer)」と呼べるものがあると考えました。そして、これらは人間の子供の発話と比較すると、よく似た初期の文法であると結論づけました。

厳密に言えば、これらは統語論的文法の構成にはほど遠いのかもしれません。しかし、これを人間がやると初期の言葉で、類人猿がやると言葉を覚えない理由になるのはなぜなのか。

時代はちょっと下りますが、子供の言葉を研究した心理学者パトリシア・グリーンフィールド (Patricia Greenfield) も、子供たちの初期の言葉は、必ずしも言語学者たちの主張するとおり文法が中心的ではないと考えました。そして言います。

子供が何かできると、それは言葉と呼ばれる。たとえば2歳の子供が何かやる、研究者たちはそれを子供の言葉だと呼ぶ。チンパンジーが同じことをする、するとそれは言葉ではない。その理由はダブル・スタンダード (二重基準) があるからだと思う。

そして、そのダブル・スタンダードがどこからくるのかと言えば、みんな子供は最終的に育って完璧な人間の言葉を話すのを知っているということからだ。私たちは、チンパンジーが育っても最終的に話したり完璧な人間の言葉を生成しないということも知っている。だから、データの解釈に偏見があるのだ。

スー・サベージ=ランボーとともに、話すチンパンジーのカンジの研究にもかかわった、哲学者のスチュアート・シャンカー (Stuart Shanker) も同じことを主張します。

…シャンカー博士のような何人かの哲学者たちは、言語学者たちはダブル・スタンダードを適用していると苦情を言っている: 言語学者たちは (類人猿たちの) 技能 ── 名詞と動詞をつなげて2語の文を形作るような ── をしりぞけている。言語学者たちが、とても小さな子供の初期の言葉の能力だと考えていることを。

「言語学者たちは要求を上げつづけ、スーは要求に答えてきた」とシャンカー博士は言った。「しかし、言語学者たちはゴールポストを動かし続けているのだ」

パターソンは、言語学者のトーマス・シービオクにダブル・ブラインド テスト (二重盲検法) が不適切だと批判されましたが、逆に言語学者たちはダブル・スタンダードを適用しているというわけです。実際、パターソンによれば、子供の言葉の研究だって全然テストはされていないと自著で述べています。

私たちは、ココの身ぶりがことばであるかないかを、このような厳密な方法で確認してきた。しかし、人間の幼児のことばの習得について比較飼料を求めようとすると、この厳密さはなくなってしまう。

もし、厳密なテスト法を使って幼児のことばの習得を確認するとすれば、ことばは、チンパンジーやゴリラにはあるが、人間の幼児にはない、という皮肉な結果もおこりうると、ガードナー夫妻が述べたことがある。

幼児の言語習得の研究を調べてみると、その資料収集の手法は、きわめてあやふやなものであることがわかる。かりに、それと同じ手法で類人猿についての資料を提出したとすれば、不明確だとか、教師や助手に促されたものだとかの反論を受けるだろう。

幼児のことばの研究は、このニ〇年のあいだ、クレバー・ハンスの教訓からは何も学ぶことなく、幼児に発話の手がかりを与えつづけてきたのである。

シービオクのクレバー・ハンスの教訓から学んでいないという批判を、そのまま返しています。ダブル・スタンダードという言葉こそ使っていませんが、前述のふたりと同じようなことを主張しています。

動物と人間の伝達の研究は、方法論からみて、相対立する観点から出発しているところに問題がある。人間の伝達行動の研究では、健常な人であれば、つまるところすべて話しことばを身につける、という予見を大前提としていた

というわけで、類人猿の話していることは、小さな子供たちと基本的に同じであり、批判している人たちは人間か類人猿かで基準を変えているのだとの反論でした。

ちなみになんですが、このダブル・スタンダードの原因は、人間は言葉を話すからという理由のほかに、一部の人々は人間と動物の境界を作っておきたいからだとする主張もあるようです。たとえば、ワショーの育ての親のガードナー氏です。

ほとんどの現代科学の歴史は、人間が特別だとの概念からの撤退であった。そして、今や血は骨に関しては、人々はおおむね受け入れている。しかし、行動 (behavior)、感情、認知、これはとても難しい。

行動科学の歴史は、円陣で固めた荷車の中の分離主義者 (separatists) たちの、ゆっくりとした撤退の戦いであると見ることができる。そしてたった今、最後の壮大な抵抗が言語の上で行われているようだ。

円陣に固めた荷車云々は、西部劇などで見かける、馬車の荷車を円状に配置して中に立てこもるように戦う様子でたとえたんだと思います。公平な議論なのかどうか気になったのですが、ときどき争点のひとつとして、「Chauvinism (優越主義)」と並んで見かけるので一応挙げておきました。

私にはいまいちぴんときませんが、キリスト教的だったりデカルト的だったりな観念が浸透した西洋的文化の社会では、こういう信念をもとに否定しようとする人たちもいるのでしょうね。
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